如月(きさらぎ)(2月)のことば―

『悲しみはやがてさびしさに 

さびしさはいつしか やさしさに…』

厳しい寒さのこの冬も、節分が過ぎると春がやってくる。止まない雨はないと言うし、明けぬ夜はないと言う。あの3・11からもうすぐ2年になる。決して時間の経過がやがては安息をもたらすと言うつもりはなく、絶望が希望を気づかせてくれた体験をした方がどれほど多くいらしたことか…。暗闇は光の存在を気づかせてくれるものなのかも知れない。

 

江戸後期の禅僧、越後の良寛和尚は大地震に被災した友人に対して見舞いの手紙を送った。

その中に「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。              是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」の一文を添えていたという。良寛さんならではのメッセージであり、これほどのことばを誰もがかけられるはずもないが、事実これ以外の妙法は見当たらない。病の時は病と四つ相撲を取り、絶望の時には絶望のどん底で七転八倒してもがき苦しむ。それこそが一大転換をもたらす、と体験された方の多くが語られる。そして清々しい表情をしておられる。求めて得られるものでは決してないのだが、そうした「サトリ」があることは、実に究極の救いであるに違いない。

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「サトリ」のおはなし

 

A面では求めて得られるものでもない「サトリ」を記しましたが、以前、鈴木大拙先生の著書に「サトリ」という名の妖怪の話が紹介されていました。テレビドラマか映画にも似たような話があって、水木しげるさんの妖怪大図鑑にも登場しているようです。

昔、「さとり」という不思議な生きものがいたそうですが、誰も捕まえた者はいませんでした。なぜならそれは人間の心をすぐさま読み取ってしまうため、なかなか捕らえることができないのです。

ある日、一人のきこりが山深く入り込み、斧で木を切っていると、眼の前にその「さとり」が姿を現しました。

きこりは、自分が偶然にも「さとり」を見つけたことを喜び「よし、生け捕りにしてやろう。」と考えました。すると「さとり」は、すぐにきこりの心を読み「おまえは、俺を捕まえようと思っているな。」と、あざ笑うようにいいました。きこりが、自分の心を見透かされてびっくりすると「俺に心を読まれてびっくりするとは、情けないやつだ。」「さとり」はすかさず、からかいました。これを聞いたきこりは、がまんできずに「こしゃくなやつめ、この斧で殺してやる。」と考えました。すると、「さとり」は「今度は殺す気か。こりゃかなわん。」といって、逃げる構えをしました。

それを見たきこりは 「こんなやつを相手にしていては、飯の食い上げだ。本来の仕事に専念しよう。」と思い直しました。「さとり」は「ついにあきらめたか。」といってその場できこりの様子をじっと眺めていました。

きこりは、この不気味な妖怪のことを忘れようとこころがけ、木を切ることに没頭し、力一杯斧を振り上げては木の根元に何度も何度も打ち下ろしました。そのうちに、きこりは「さとり」のことなどすっかり忘れてしまい、額からは汗が流れ落ちていました。そのとき、偶然にも斧の頭が柄から抜けて飛び出し、「さとり」に命中してしまいました。このおかげで、きこりは「さとり」を生け捕りにすることができました。

つまり「さとり」は、「無心」を読み取れなかったというお話でした。

無心というのは、何も想う事がない状態というより、無我夢中に目の前のことに成り切ることです。斧を握ったら斧と一つになり、全身全霊が三昧に到ることです。良寛さんの言うところの「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」は、余分なことを考えずに、ただひたすら今やらねばならぬことに打ち込め‼ だったのです。


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