()無月(なづき)(6月)のことば―

『ある(つの)も  ()さねば(まろ)し  かたつむり』

 

今年は例年に比べて二週間ほど早い梅雨入りだとか。水満々とたたえられた田んぼは田植えもほぼ終わり、カエルの鳴き声やらケリ(嘴と足の黄色いチドリ科の中型鳥)の求愛の?甲高い鳴き声が響き渡ります。梅雨時にお似合いの動植物は結構いるもので、紫陽花にかたつむりもこの時期が良く似合う景色です。

 

江戸時代の始め、姫路の近くの網干というところに盤珪禅師(ばんけいぜんじ)という禅僧がいました。ある僧がたずねてきて、「私は生まれつき短気で困ります。すぐ腹を立てて、人には器が小さいと思われ師匠にも叱られます。盤珪さん、なんとかこの短気をなおす方法はありませんかねぇ。」という相談に盤珪さんは、「その短気とやらを、この場に出してみなされ。短気の正体を見ないことには、なんともならんからの。」と言いました。「いや…いまのところは、短気はござらぬ。何かの折にひょいと短気が出ます。」「そんなことがあるものか。生まれついてのものなら、いつなりとも、どこなりとも出せるもの。本当に無いのか?」「腹の中を探ってみても見当たりません。人と面倒を起こしているときには顔を出します。」「なんともお主はおかしなことを言われる。自分の身びいきで、出たり引っ込んだりするものを、生まれついてのものと言うのか。自分の我欲の罪を親になすりつけて、生まれつきだと言うのは、親不孝者だ‼」

 

短気に実体のないことを気付かされたこの僧は、「気」に振り回されることなく、自在にコントロールできるようになったそうです。出さねば丸し かたつむり…でした。

達磨(だるま)安心(あんじん)

表ページの盤珪さんの逸話に似た話がある。

 

日本に仏教が伝来した6世紀初めごろ、正しい仏法を伝えようと中国に渡ったインド僧がいた。達磨大師である。伝説によればそのころすでに150歳に近かったとも。中国北部の嵩山で面壁9年、ついに禅宗の基礎を築きあげた。

 

達磨が面壁坐禅の日々を送っていたころ、神光という人物が達磨をたずねてきた。彼は少年期より大小乗の仏典を読破しながらも心中なお安らかでないものがあり、ワラをもすがる思いで嵩山にやってきた。昼夜を分かたず弟子入りを懇願するも、達磨は坐禅三昧にして彼の申し入れに耳を貸さなかった。12月9日の夜、天は大雪を降らせたが神光は身じろぎもせず、明け方の積雪は彼の膝を越えていた。達磨はたずねた「何を求めているのか。」「師よ、慈悲をもって法門を開き、われら衆生を救いたまえ。」「最も大切な道は、行じがたきを行じ、忍びがたきを忍んで永く精進して初めて得られる。安直に会得しようとするな‼」師の訓戒を聞いて神光は、ナタをもって自ら左腕を切り落とし師の前に差し出した。雪景色は鮮血に染められた。そして神光は「師よ、わがこころは未だ安らかにあらず。なにとぞ安心を与えたまえ。」とすがった。達磨は「こころを持って来なさい、なんじのために安らかにしてしんぜよう。」「こころを差し出そうにも、どうにもかないません‼」達磨は言う「これでお前のために安心し終わったわい。」と。こうして達磨の唯一の弟子が誕生した。名を慧可と改められた。

 

いつも文章を書く時に躊躇することがある。一つの逸話を、特に禅話を紹介するときには己れの力量のつたなさゆえに事象のみを紙面に綴ることとなる。これこそが危険であり、大罪を犯しているのかも知れないのである。つまり達磨と慧可、この二大禅匠のここに至るまでの命懸けの絶望的な求道の激しさまでは到底表現できないからである。古人はこの二人のギリギリのやり取りを歌にしている。

『少林の 雪にしたたる唐紅に 染めよ心の 色あさくとも』

恐らくこの詠み人は真の求道者でもあって、「慧可断臂」に共感のあまり涙しながら一首を詠まれたのであろう。また西洋の哲人の言葉に…

 『苦難の涙に幾夜を泣き明かし、ひとかけらのパンものどを通らぬ思いを知らぬ者よ、汝に神の恵みは届かない。』というものがあると聞く。いずれも心の引き締まるひとことである。

 ちなみに、慧可大師の絶体絶命の一境に追い込まれた挙句の決死の入門は、後の禅宗の入門の作法?に盛り込まれることとなった。思わず作法と書いてしまったが、作法であってはならないのである。
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