正光寺の歴史
所在地 静岡県浜松市東区豊町749番地
山号寺号 金光山 正光寺
所属宗派 臨済宗(禅宗)大本山奥山方広寺
本尊 聖観世音菩薩
合祀仏 薬師如来 弥陀三尊仏 他
鎮守 北星妙見菩薩
由緒 当寺は、往古より妙見菩薩の霊場として知られ、創立年代は不明であるが、17世紀の初め慶長年間までは、真言宗に所属し、美薗並びに羽鳥郷の内八ヶ寺の本寺にして、当時の境内面積は52万坪(約171万u)あり、境内中央より何れへも八丁四方を所有していたと云う。
室町時代は今川家累代の祈祷所であり、今川氏真公直筆の花押入り古文書も寺宝として蔵されている。
慶長17年8月、雪斉惠宗禅師開山となり、臨済宗方広寺派に属し爾来法燈世系連綿として今日に及ぶ。明治初年県下寺社合併の令達後、村内自光院(薬師堂)及び下石原(豊町下)海福寺の2ヶ寺が当寺に合併され、各本尊仏も合祀された。

朱印 慶長元年8月、大獣院殿(徳川家光公)御朱印、北条安房守殿(新蔵家)知行所内より正光寺領を六石壱斗、薬師堂領を弐石下賜される。その他伊那備前守除地四石一斗、施餓鬼料を弐石、了仙庵領を弐石賜る。徳川家光公より家茂公に至るまで九通りの旨令書を存していたが、慶応三年九月、西京弁事御役所へ返納される。
道から山門まで約六十b、両側に樹齢百年以上を数える松の木が並んでおり大きな枝をひろげ、参道の空を被っている。昔は四十八本植えられていたそうだが今は枯れたもの、台風で倒れたものなどあって数は少なくなっている。四十八本というのは「いろは」四十八文字にあやかるもので、土地の人たちは「いろは松」と呼んでいる。過去二度三度と出水に見舞われたが、松は大地に深く根をおろし耐えてきているのだ。

山門に掲げられている白隠筆の「金光山」の扁額
            駿河の国にすぎたるものが二つあり、富士のお山に、原の白隠
といわれたこの名僧は、十四歳でふる里駿河の原の松隠寺で得度、諸方歴参ののち、信濃飯山の正受老人の法をつぎ、やがて京都妙心寺第一座となり晩年は三島の竜沢寺を開いている。正光寺の山号額を白隠が書いたのは、同寺八世環渓和尚が白隠の弟子であったつながりによるもののようである。環渓和尚は人々を寺に集め、碧厳録を講じたというから学才のほどがしのばれる。同和尚が示寂したのが寛政六年六月十三日、七十五歳であった。正光寺の現在は十八世松尾正澄である。










山門を入った左側に築山があり、二基の石碑が並んでいる。一基は十三世神野廉道和尚の碑である。明治初期、この寺で寺子屋教育をして地域社会文化の向上につとめたため、、明治三十六年三月、地元の弟子達が浄財を出し合って建立したものである。
あと一基は、十二世和尚竹内竜道和尚明治三十九年一月「凌雲碑」が建立される。










霊塔は昭和五十七年四月墓地改装の際堀り上げた骨を納めたのに伴い建立された。「和ー芳縁塔」と刻まれた石塔は、この寺に縁のあった人たちの永代供養塔として建てられた。右には「六地蔵」も奉られている。
【今川氏朱印】
今川氏累代の祈願所で、永禄四年九月今川氏真より遠江国美薗ならびに羽鳥郷の内寺院十ヵ所の内へ八ヵ寺云々と書いた直筆を寄せられていた

今川氏滅亡以来寺運は甚だしく衰頽したが慶長十七年八月になって本派臨済寺から雪斎和尚を懇請して臨済宗方広寺直末金光山正光寺と改称中興の開山とした。雪斎和尚は本村羽鳥、小栗九郎左衛門の子で、足利氏に仕えていたが、その衰亡帰すや駿河に至り今川義元に仕えて、その軍師となった。今川氏滅びてから大岩臨済寺に入り禅学を修めた
【白隠様の墨蹟】
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