文月(ふみづき)(7月)のことば―

『この(あき)は (あめ)(かぜ)かは ()らねども

          今日(きょう)のつとめに ()(ぐさ)()るなり』

私たち臨済宗の修行道場では、その日の主な日程はその日の朝にならないと告げられません。「午前分衛、午後作務」とか「本日作務」とか…。午前中は托鉢で、午後は農作業や薪割りなどの労働を行う、という具合に。指令を出す上席はあれこれと計画や内容の吟味などを当然行うわけですが、雲水たちは「いま・ここ」しかありませんので、いま与えられた務めをただひたすら励めばよいわけです。それが修行なのです。しかし入門したての雲水は明日の日程は何だろうとか、休息日はいつになるのだろうかと気をもみます。予定が見えれば苦しいことには覚悟もできるし、うれしいことならば期待もできるからでしょう。しかし、明日のことなど現実には何も約束はされていません。アテは外れるものです。あらかじめ周到に準備することも必要なことかも知れませんが、それとても万全ではありません。それよりも何が起こっても何がどう変化しても常に「いま・ここ」を懸命に生きることこそが、実は万全なのです。

 

 神さま仏さまのなさることは「出たら目」です。つまり、サイコロの目のようなものでルールや作為は通用しません。良い加減なのです。「えーっ、そんなぁ」と愕然とされるかも知れませんが、だからこそありがたいのです。善いことをすれば良いことが訪れるとか、悪いことをすると地獄に落ちるとかが、神仏との間に契約が成り立つとすれば、善いことをするにも駆け引きが生じ、真の善行は生まれません。たまたま悪行を犯した人も、「どうせオレは地獄行きさ」と心を入れ替えることもなくなるでしょう。明日のことは分かりません。今日の務めをただひたすら愚直に果たす、ここが大切なのではないでしょうか。もちろん見返りを期待していてはダメですよ。

正光寺のホームページもごらんください。 http://shokoji.net

       こぼればなし(禅の修行道場)

 A面で雲水さんの生活に少し触れてみましたが、実際にはどのような修行が日夜行われているのでしょうか。文章で表現するのは困難ですが、もう少しのぞいてみましょう。

 

道場は年功序列の厳しいところで、入門前の地位や肩書、学歴、年齢などはまったく意味を成しません。入門以後の時間的経験のみが序列を決定します。非常に分かりやすく、しかも過去のしがらみへの執着を奪い去ってくれます。つまり無垢な自分に生まれ変わり易くなれます。禅は文字が示す通り「単を示す」訳ですから、極めてシンプルなものです。しかし残念ながら私たちは様々なことを長年にわたって経験すればするほど、ややこしくなってしまいます。何十本ものコヨリ(紙ひも)が幾重にもからみあったようなもので、もがけばもがくほどこじれてにっちもさっちもいかなくなってしまいます。ですからそれをほどくためには一度水に溶いてしまい、ヒモの形状すらわからなくなるほどに溶かし込んでいきます。生まれる以前の自分に戻すようなものでしょうか。そして改めて紙を漉き、コヨリを縒(よ)りなおす訳です。

 

入門の前に最初の関門があります。「庭詰め(にわづめ)」と「旦過詰め(たんがづめ)」です。前者は、身支度を整えて早朝の道場の玄関に到着するなり「ターノーミーマーショー」と入門を乞います。どこの馬の骨ともわからぬ入門者はどれほどの信念を秘めてやって来たかなど、道場側は分かりませんので、とにかく追い返します。力づくで追い返されても追い返されても入門者は玄関先でうづくまりながら頭を低くして入門の許可を待ちます。そのまま二日間を過ごすと少しはやる気がありそうだと判断され、狭い座敷に通されます(旦過詰め)。そこで五日間、壁に向かって坐禅三昧に過ごします。そこを経てようやく入門が許され、大勢の雲水さんの尻について修行が始まるのです。

 

道場の門をたたくまでには各々様々な覚悟を決めてやって来ています。師匠から頭を剃って頂いた時、はじめて雲水の装束を身にまとった時、わらじを履いて家を離れた時などなど…。しかし門をたたいて「庭詰め」が始まって30分もしないうちから、(これからどうなるのだろう、家族は、友達は今頃どうしているだろう…)などの憂慮や後悔、不安などの雑念が充満してきます。それは容赦なくヘドや膿のようになって溢れ出します。腹の底から覚悟を何度も決めてやって来たはずなのに、早くも、もろくもガタガタと崩れ落ちていきます。もう少し自分はまともであったはずなのに、もう少し自分は強いはずだったのに…あっけなく崩れていく自分のこころと、ヘドロのような吐しゃ物に、今の自分を消去したいほどの何とも言えぬ苦海を漂うがごとき庭詰め、旦過詰めの一週間を経験させられるのです。

 

修行とはまず自分自身の正体を知ること、化けの皮を剥ぐことから始まります。その生まれる前の自分に戻って、そこからどう自心を調えていくのかを坐禅や禅問答や作務などを通じて深めていくのでしょう。また、恐らく誰もが同様の挫折を経験していることでしょうから、つまりは人は誰しも罪深く、不完全で弱い存在であることを承知することが「慈悲心」の芽生えにも繋がっていくのだと思われます。自己自身の正体を証し、そしてA面の「いま・ここを愚直に生きる」、これが行く雲のごとく、流れる水のごとき「雲水」の姿なのです。


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